昭和51年09月12日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
この世が始まって以来、こういう表現をされた方、宗教家は又とあるまいと思われます。天地金乃神と同根とまで、天地の親神様から、まぁ讃えられておられます。金光大神と恩人とも讃えておられます。私はこの形がのうなったら、来てくれと言う所に行ってやるという、教祖金光大神がまだ生きながらにして、こういうお話を残しておられると言う事は、まぁ大変な事だと思うのですけれども、いわゆる天地の芯というか、いうなら天地が水なら、教祖様も水そのものにでおありになったと。
だからいうなら天地と同根と言う事になる訳です。なるほど天地の働きをそのままに、教祖金光大神が現しなさる事が、出来なさると言う訳であります。まぁいろいろな頂き方がありますけれども、今日はそういう絶対無にと申しますかね、又とない金光大神の後神格というものは、もうそのまま天地金乃神様、いうなら親神様と同根、一体でおありになると言う事。
そこで私共がそういう金光大神のおはたらきを受けて、信心を分からせて頂くと言う事は、どう言う事をやはり目指しとさせてもらわねばならんかと、まぁいろいろにあります。まぁ天地書附を基軸にしてとか、もうお道の信心はただ有り難い有り難いの一念、いうなら有り難とうならせて頂く稽古とかと、まぁいろいろ申しますが、その私は今日は最も芯にしなければならないのは、私共が神様任せという心の状態ですね。
私今日は御神前で、あのうこう海の岩がこうあって、海の中をこう縫う様にして、その一艘の舟がやって来た。その船に私が乗らせて頂いた。だから岩と岩との間こう縫って行くように出ていくんですから、先はどういう大海原に繋がっておる言でしょうけれども、お先は分らんです。分らんけれどもその船に乗らせて頂いた、御心眼を頂いたんです。そしたら今日、この19節を頂きますからどういう風に繋がるかさっぱり分らない。分らないけれども、あのいうならばお道の信心は有り難うならせて頂く稽古とか。
いわゆる天地書附を基軸として、いよいよ和賀心を目当て目指しとして、信心の稽古をさして貰うと言う事なんですけれども、そう言う事になったら結果においてどう言う事になるかというと、もう任せっきりという心がいよいよ生まれ、強くなって来ると言う事ではなかろうかと思うです。先はどうなるだろうかというだから不安がない訳です。もうその船に乗ったが最後、いうならば船もろともという心にならなければ出来んのです。いうならば船はもう帆任せ、風任せという気にならなければ出来んのです。
私は一番最高に素晴らしい信心というならばです。そんなら合楽に御神縁を頂いておられる皆さんが、なら合楽丸なら合楽丸という船に乗り込んだが最後、もう私は船もろともという気になる事だと思うです。そこにですいうならばこれは、ここには金光大神ですけれども、ここではなら大坪総一郎と言う訳ですけれども、大坪総一郎の乗っておるその船に、皆さんも乗られた訳ですから、その大坪総一郎任せになると言う事が、一番有り難い結果が頂け、また生まれて来ると思うです。
もうそれは私自身がここでおかげを受けておるおかげが、皆さんの上にも一様に頂けれると言う事です。船もろともという気になる。そこにはね度胸が出来る、そこには安らぎがある。ですからまぁ皆さんがここでお参りをして頂くと、御教えを頂かれる、そしてお取次ぎを願われる。親先生が右と仰るから右、左と言われるから左と言う風に、まぁ生き方をだんだんおかげを頂いて、なるほど親先生任せになっときゃ、おかげ頂くと言う様な体験が生まれてくる。
だからその体験を元にしてです、いよいよただ願う言だけではない、もう一切がいうなら、あなた任せと言う事になる心の状態を作って行く事です。自分のお伺いをした事だけを任せるのではなくて、一心一家がねいよいよ任せる、委ねるという心になる事。まぁとにかく合楽に御神縁を頂いたならばです、なら合楽丸に本当に乗り込んでこそ、合楽の信奉者と言う事が言えるのじゃないかとこう思うです。そこにはね様々な信心のおかげを頂いていく一つの骨相と言った様なものが、全部入って来る様ですね。
身も心も家そのものも、全部その船に乗ってしまうのですから。もういうならば我情我欲を捨てた姿じゃないでしょうかね。どんなに財産を持っておるというても、もうその船に乗ったが最後です、もう舟もろともですから。自分のもののようであって、自分のものではない。いうならば合楽のものと言う事に、なってくるのじゃないですか、区別がなくなってくる。
玉水の湯川という先生は、大阪の当時もう今でもそうですけれども、日本一の当時教会と言われました、大変なおかげを御非礼の立った教会です。大阪の事ですから商人が多い訳です。そしてその参って来るいろんな難儀をお取次ぎされて、とにかく神様がご主人だと。だからあんたはそこの言うなら主人であるならば、先ず支配人。嫁さんはそこのいうなら女中頭ね、神様を主人とした生き方頂き方。
そこにならもう一切が売れる事も売れない事も、借金がある事もない事も、ご主人の言われる通りにすると言う事になる訳ですけれども。今日私が皆さんに聞いて頂いとるのは、そう言う様な事も内容に入ってしまうように思うですね。その船に乗ると言う事は。家はもう神様のお店だから、もう神様のお店で自分は支配人、ここの番頭さんで家内がもう女中さんでと、言う様な事をまぁ言うならば、その玉水さんの真似をして言う人がありますけれども、もうそれでおかげを頂いたと言う事をです大して聞いた事がない。
これはやっぱり玉水の湯川先生のお取次ぎを頂いて、それが生き生きして来るのであって。言うならば玉水丸に乗り込んだ人達でなからなければ、あの御教えは該当しない、当たらないと言う事になります。そして結局は徹底しきらんまま終わってしまいます。いうならばご主人にこっそりと金を使うたり、ご主人にこっそりといろんな事を思い立ったりする。都合が悪るなるとまた神様と言って抱き付いて来ると言った様なね、いうなら任せるというたら任せるという。
その心がね出来ずしてはいかに神様のお店であるとか、神様はご主人で自分は番頭であると言った様な事ではね不徹底です。だからおかげにならんのです。それを例えばねあの玉水さんの場合はそれをある意味で徹底させられた。お金が足りんでどうにも出来ん、首が回らんごつなって、もう今月の支払いができませんというてお願いになった。それでそれに対してどう言っておられるかというと、あの売上げのは全部いうなら、あのう金庫ん中に入れる。
ガツガツ昔はそのあのちょうど、お賽銭箱の様なのが商売の家にありましたよね。中に金をこう投げ込んでですね銭箱ですよいわゆるね。そして例えば集金に来たならば、その銭箱をひっくり返してあるだけ払えと、あすこに払わんでここには払うと言う事は言うなするなと。なか時には払うな、ある時にはあるだけ払え。そしてこの一ヶ月間は計算するな、と言う様な風にお取次ぎなさった。いわゆるもうその一点張りだったように思うですねあちらの信心は。
だから自分であそこに払わんでよいと思うても、集金に来たら払う。しかもそれはあるだけである。おかげを頂いて月末がおかげで越せた。はぁもう神様の働きもう親先生の一言というものは、もう本当に神様の一言だと思うて有り難いと思うた。だからこの調子さえ忘れなかったらおかげになるとね、確信を持って先生はお取次ぎをなさる訳です。ところがその翌月にも、やっぱその調子でいったところが、25日ぐらいになって後もう5日間で、さぁ今月はどげな風になるじゃろうかと。
これは払いが出来るじゃろうかと、そりゃ売上げはそん中に入れるばっかり、集金に来たとそれから払いよるばっかり、どげな風になりよるやらさっぱり分らん。そこでまぁ少し不安になったから、今月末の支払いはどげんなるだろうかと思うて、銭箱ひっくり返して数えてみた、そう言う事があって月末どっこい支払いが出来なかったから、今月は支払いが出来ませんでしたというてお届けをした。そしたら先生が「お前が銭箱ば調べたろ」とこう言われた。
「はい25日の日に今月はどげな風じゃろうかと思うて、まぁちらっと調べてみました」、「だからおかげ頂かじゃった」と仰ったそうです。先月の生き方はもうそのまま船もろともの生き方です。だからねとても親神様がご主人で、私は番頭さんでという生き方は、そんなにいわば難しいようで、または見やすい訳なんですけれども、その見やすい方を取りきらんで、自分で計算をしたり自分でどこにいくら払うたがええ、自分であそこには払わんでええとか自分で決める。
私はそういう生き方がです、もういうなら我情我欲を外した生き方だと思うです。自分の思いというものは、もう神様にもうお供えしてしまってある、親先生もう任せになりきっておる。いうならばね玉水丸なら玉水丸にもう乗り込んだが最後、いうなら自分で金数えることすらも、もうせんで済む程しのおかげですから、こげな見やすい事はないけれども、そこが人情がでる我情がでる我欲がでる。と言う程しにです、私は見やすい事であると同時に、また難しい事だと言う事であります。
ですから他所の教会の系統の人が、玉水のそういう例えば言われておる事のところだけを頂いて、おかげになるはずが絶対ないですね。私共商売さして貰いよる時分に、そういう話は大変有名ですから、もう何処ででも通用すると思って、もう神様がご主人だから番頭さんが何人もおります、だから番頭さんに100円の給料を出すなら、神様はご主人じゃからね、番頭並じゃいかんから、110円なら110円の給料をお取りにならなければならんから。
そういう考えでねお供えをご主人の分としての、お供えをさして頂いた時期がございました。けれどもおかげ頂きませんでしたね。皆さんが例えば10万円の給料をとっとる、んなら番頭が10万円の給料をとっとるから、親先生にはんなら20万の給料のつもりで、親先生が例えば今日のご理解でいうと、ご主人であるからね、自分の番頭より少ないような言では相済まんと言う様な事を、例えばでその言だけを実行なさっただけでは、おかげにはならんと言う事です。
いかにも殊勝な思い付きであったように、自分で思うようですけれども、そう言う事よりもです、私は本気で今日のご理解で言うと、金光丸と言いたいところですけれども、合楽におかげを頂いて、合楽私の取次ぎを中心にしておかげを受けていかなければならんと言う事は、結局皆さんが言われる、親先生任せの徹底にあると私は思います。そこにはねみじんも我欲がない、我情自分の思いというものがない。
ただ売らんかなのために、ただ儲からん事のために、時々親先生任せになっとると、神様任せになっとるというのは、当たらない事が分ります。それでは本当ではないと言う事がね。一時が万事にねいうならば親先生任せね、一心自分の一心だけではない、自分の店そのまま自分の家そのままを親先生任せ、いうならば合楽丸に乗って、いうならば船任せの心になると言う事は、いうならば金光大神が天地の親神様と、同根でおありになられるからこそ、形がのうなったら来てくれと言う所に行ってやる。
天地の働きをそのままに現しなさる事が出来る様に、私共がです合楽丸に乗らせて頂いたが最後です、合楽と一心同体という生き方を身につけておいでられたら、合楽で頂いておるおかげを、いうならばそのままに合楽のおかげが、天地の働きそのままであるならば、いうなら天地の働きそのものの働きを現して行く事が出来るのです。合楽に隆々たるごひれいが立ち輝くならばです、なら皆さんのお店にも家にも、隆々たる家繁盛の基礎、土台又は繁盛が約束される訳です。
ただお願いをする一部だけお任せをする、これはある意味ではどういう事かと言うと、ただ神様をいうならば、合楽を利用しとるに過ぎない事になるのじゃないでしょうか。これでは本当のいうならば、信心の度胸も出来ません。自分の都合ようなれば有り難い、都合ようならなければおかげじゃないと、言った様な信心しか頂けません。どんなに波が高こうなろうが、どんなにもうこのまま沈むじゃなかろうかと言う様な時であってもです、船、船もろともという気になれば、楽じゃという心が生まれて来るです。
その楽じゃという心が、次のおかげをキャッチして行く訳です。だから任せる事の徹底それをですね、いよいよね一ペンにとは中々出来ませんでしょうけれどもです、いよいよギリギリの自分の思い、願いと言った様なものを捨て切って、任せる稽古を様々にしてみなければいけません。例えてまぁお百姓さんでいうならばね、畑にお野菜ならお野菜を作ります。大根を作りましょうか人参を作りましょうかと、そりゃ親先生が言われる通りに人参を作れといわれたけん人参作ったら、今年は人参がえらい高かったと。
そげん時は有り難いと思う。ところが親先生が大根作れと仰ったけん大根作ったら、もう二束三文安かった。こりゃやっぱお伺いしちゃいかんばいっち。これではただ神様を利用しとるだけでしょうが。例えなら親先生任せになって、親先生が大根作れと言われたけん大根作った。ところが今年は大根の相場が安かった、こりゃしもうたと言った様なもんではなくて、そこに限り知れない神様の働きを感じれた時、初めてこの天地の親神様が、大きな偉大な神様になって来るのです。
はっきりと自分で分るから、分る神様と言うたらもうそれだけの神様。どこに御神慮が、どこに働きがあっておるのやら分らんのだから、神様のご都合に違いはないと信じる、神様の神愛の現われに違いはないと感じる。訳は分からん何故か、けれどもね神様のご都合に違いはないという頂きかたこそ、いうならば合楽丸に乗っておると言う事になるのじゃないでしょうか。
売れる時だけがおかげではなくて、それとは反対に引っ掛かってね、例えば倒産の憂き目を見たと言う様な事であっても、神様のお取次ぎを頂いて、親先生任せになってからの言であるから、それは何故ですかと言うても答えは返っては来ない、分からない。分らない程しのいうならば、神様を頂いておくと言う事が有り難いのです。分かってしまうなんて言う事は絶対、天地金乃神様の働きの中には、私共凡夫で分るはずもない。
もう限りがない分らない言ばかりですけれども、それを一つ一つこの分かって行く所に信心の楽しみがある。これだけ覚えたから、もう金光様の信心の全てと言った様な事があってよかろうはずがない。という程しに金光様の信心は偉大だという。その偉大な信心をそのまま教祖金光大神は受けておられたと。天地の神と同根とまで言われるところまでいっておられた。
もう金光大神というよりも、むしろ親神様と言った方がよい程しの働きが、そこにお出来になられると言う事がです。私は形がのうなったら、来てくれというところへ行ってやると。私共が例えばんなら魂の世界にまいってもです。本当に合楽に身も心も任せきっての生き方になるならばです、合楽でおかげを頂いておるいうならば形の事、又は無形のもの形のないものの魂の世界に入っても、同じ働きを現す事の出来れる確信も、いわば出来て来るというもんであります。
昨日の御理解の中にも申しましたようにね、信心のギリギリの、いわゆる究極のところは、生死の安心だと申しましたね。私はこの任せきった本当に任せきった生き方の中に、度胸も出来ると同時にその中におかげの頂けれるコツ合いというものが、全部入ってくると言う事任せると言う事の中には。その中には和賀心も育つだろう。いよいよもって有り難い思いも募って来るだろうね。そして先はどうなるのじゃない、その船がどこの港に着くやら分らんのだけれども。
もう間違いなしに、極楽のそしてまいっちょ向こうの、合楽に到達する事は間違いない。まぁ昨日の御理解を借りるとそう言う事になります。そこにはもう理屈抜きにして、この任せると言う事はそのように素晴らしい事。だからこそ素直にてね雲の上までも、登る道ありと言う事になって来るのです。野菜が高かろうが安かろうが、親先生任せになって作らせて頂いたお野菜だから、高い安いはもう問題ではないと言う事に、なって来る程しの信心を受けた時にです。
まぁこれは合楽で頂いておるおかげをそのままに、現す事が出来れる事になる。合楽が天地の働きをそのままに現し得るようにならして頂いたら。ならやはり天地の働きをそのままに、また私共も現す事が出来ると言う事になるのじゃないでしょうか。今日は大変「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」と仰せられます。それを私は合楽と言う事。合楽の教会と言う事。
皆さんがいよいよ合楽の教会と歩調を一緒にする。合楽教会任せになる、身も心も家も財産も合楽教会のものと同じ、いうならば状態になられる時に、合楽でのごひれい合楽での起こっておるところの働きを、そのままに受けて又はそれを現して行く事が出来ると。今日のご理解とはちょっとまぁ、この19節をヒントにして頂いた、今日は御理解と言う事になりますですね。
どうぞ。